本研究は、篠原助市教育学におけるナトルプ学説の位置付けを、両者の学説史的展開の比較を通して考察することを目的とする。篠原のナトルプ受容を1922年『批判的教育学』から1939年『教育学』まで分析した結果、篠原は『社会的教育学』の理論的枠組みを基礎としながらも、ナトルプの社会主義的発展には関心を示さず、選択的受容を行っていたことが明らかになった。これにより、篠原は自然の理性化から個人の歴史化への教育学説転回において、ナトルプを理論的基礎として活用しつつ、自身の教育学的関心に応じて選択的に受容していたことを解明した。